大阪高等裁判所 昭和29年(う)211号 判決
本件控訴の理由は、記録に綴つてある、神戸地方検察庁検察官検事井嶋磐根名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、これを引用する。
原判決摘示の犯罪事実を要約すれば、被告人は昭和一七年頃から浜田アグリと内縁関係を結び同棲し、昭和二三年六月頃から神戸市葺合区旭通四丁目国際マーケツト、第三三三号に居住し、専らアグリのポン引の収入で生活していた者であるが、昭和二八年三月一〇日午前七時頃右被告人の居宅でアグリと性交するに際し、従来から時々していたように、同女の承諾の下に被告人の手で同女の咽喉部を締めたが、この様なことをするには、相手の身体の状況に十分の注意を払い、窒息死亡せしめるが如きことのないよう、危険の発生を未然に回避する措置を執るべき義務があるのに拘らず、従前のようにアグリの顔が紅潮して来す、又同女の被告人を抱いていた手がだらりと下る等の異常の徴候が現われたことを軽視して締め続けた過失により、やがて同所において同女を窒息死亡するに到らしめ、その死体を初めて関係を結んだ思い出の地に運び、被告人自らも後を追つて死のうと考え、運ぶのに便利なように同日午後から翌一一日昼過頃までの間に右自宅で出刃庖丁及び西洋かみそり等にてアグリの死体の頭部、手足、腰部等を切離し、更に胸部等の肉を切取り、右一一日及び一三日の各午後七時頃の二回にわたり、右損壊した死体を同市灘区篠原北町所属の山中に運び地中に埋没して遺棄したものであつて。被告人は右犯行当時心神耗弱の状況にあつたものであるというのであり、右の事実は挙示の証拠によつてこれを首肯することができる。
しかるに検事は先ず被告人はアグリの承諾の下に同女の首を締めたものでないと主張するけれども、原判決引用の鑑定人上田政雄作成の鑑定書中、浜田アグリの死体右顎下腺の内側組織内に約小指頭大にわたる軽い組織内出血が認められ、又右顎下腺周囲の大豆大の淋巴腺にも米粒大までの赤色斑紋部が認められるが、組織学的には明瞭な淋巴腺出血を認めない。死因は扼殺との記載等より嬰児又は数歳の幼児なれば又格別、肥えてはないが三三歳のアグリを同人の承諾を得ずして絞殺するに紐等をもつてせずして手にてしかも右鑑定の結果に見る傷害のみを残すが如き圧力にてなし得るが如きことはとうてい思考し得ざるところであり、又閨中の秘事は当事者のみこれを知るところであり第三者において軽々に推測することはできないのであつて本件においても当事者の一方が死亡しているのであるから、被告人の供述以外に当時の状況について直接の証拠がないのは当然というべく、従つてこれが供述の真実性につき十分の注意をなすべきは多言を俟たざるところである。元来原判示の性交上の技巧に関するが如きは相対的のものであるから、被告人がアグリ以外の婦女と性交する場合に相手の首を締めるようなことがなかつたという事実から、直ちにアグリと性交する場合にも同女の首を締めるような習性はなかつたと推論するのは独断の譏を免れないし、又アグリが被告人と性交の際首を締めてくれと求める習性がなかつたという検事の主張も亦これを維持すべき確証は見当らない。そして被告人の供述内容を仔細に検討するに、そのいうが如きアグリとの性行方法は著しく異常なものであるにしても、検事所論の如く全くあり得べからざるものであるとして否定し去ることはできないのである。次に検事は被告人は殺意を以つてアグリの首を締めたものであると主張し、その援用する証拠によると、被告人がアグリに対しそのポン引等による儲が少いと言つて乱暴を働き、アグリと馴染客との交遊に嫉妬して同女に暴行を加えたことがあり、本件犯行の前夜即ち昭和二八年三月九日の夜被告人が大路石松等と飲酒酩酊し、アグリに石松を送る自動車を呼びにやらせたところ帰りが遅いので、馴染の権藤某と密会しているのでないかと嫉妬し翌一〇日午前二時頃アグリと二人きりになつたとき同女に殴る蹴る等の暴行を加えたことが認められるけれども、それだけの事実からは被告人がアグリを殺害しようと決意して同女の首を締めたと推断することは早計に失するのであり、又被告人がアグリの死後その死体を寸断し数ケ所に分散放置したのは同女に憎悪の念を持つていたことを証するものであるとの検事の所論にもにわかに賛同し難いのみならず、被告人がアグリの死を知りながら直ちに医師を呼びアグリの蘇生に努力しなかつた点を捕えて被告人に殺意があつたとする証拠も亦薄弱であつてとうてい採用できない。けだし本件記録によると被告人はアグリの首を絞めた後、同女の態度が従前と異つていたため狼狽し心臓に耳を当てたところその鼓動が止つていたので、強心剤を注射したり、人工呼吸を行つたりしたがついに蘇生しなかつたことが認められ、この事実は検事の論法をもつてすれば殺意がなかつたことの反証の一として数え得るであろうし、このような事情で妻が死亡した場合、生計の豊かでない被告人に直ちに医師を聘すべきだとすることは酷な注文であり、殊にいわんや右事実を以つて殺意ありとするに至つてはその可なる所以を知らない。そして記録に現われたところによると被告人は重い肺疾に侵され就労することができず、専らアグリの収入によつてその日を送つていたものであり、アグリに遺棄せられるか又は同女が死亡することは同時に被告人の糊口の途を絶つことになるのは明らかであるから、よくよくの事情がなければ殺意を以つて同女の首を締めるというが如きことはあり得ないというべきである。しかるに原審検察官の立証を以つてしてはついに殺意を肯定すべき資料を発見し得ないのである。更に検事は被告人に殺意はなかつたとしても害意をもつてアグリの首を絞めよつて死に致したものであるから傷害致死の認定をなすべきであると主張するけれども、すでに説示した如く被告人がアグリの首を絞めたのは情交中その快感を増さんがため同女の求めがあつたものと認定するを相当とし、同女が自動車を呼びに行つて帰りが遅かつたのを密会のためと考え嫉妬の余同女を殴つたり蹴つたりした後首を絞めたものであることを首肯するに足る証拠はないのであり、右殴打等の時刻が午前二時頃であつたのに性交の時間は午前七時頃であつた点よりするも、その間約五時間を経過し、被告人の忿懣も醒めたものと考えられる(原審証人青木洋子な本件犯行の直前午前六時か六時半頃アグリが自宅前で立つているのを見かけたと証言している)のである。そして婦女の首を絞めることはもとより暴行行為であるが、性交中その快感を増さんがため相手方の首を絞めるようなことが行われたとしても、相手方の要求もしくは同意を得ている以上、違法性を阻却するものとして暴行罪成立の余地なきものというべく、ただその場合相手が傷害を受けて死亡したとき、嘱託による殺人罪を構成するが如く、たとえ相手方の同意があつてもこれを不問に附し得ないのであるが、本件のように被告人が屡々アグリとの性交に際し同女の首を締めたことがあり、いずれも同女が死亡するに到らなかつた場合には致死につき不確定犯意又は未必の故意があつたということはできず、単に危険の発生を防止すべき義務を尽さなかつた点において過失致死罪に問擬すべきである。従つてこれと同趣旨に出た原判決は正当で検察官の所論は採用できない。なお記録を精査しても原判決に事実の誤認あることを疑うに足る証跡を発見しないので、結局論旨は理由がない
(裁判長判事 岡利裕 判事 国政真雄 判事 石丸弘衛)
<以下省略>